History of Education Thought Society  教育思想史学会





第15回大会―(2005年)



日程:

2005年9月18日(日)-19日(月)

会場:

日本大学文理学部 百周年記念館

〒156-8650 東京都世田谷区桜上水4-2-50

京王線・東急世田谷線下高井戸駅から徒歩10分  →会場地図はこちら 


〔プログラムダウンロード(pdf)〕

第15回大会プログラム 1  2
第15回大会コロキウム要旨 1  2


↑百周年記念館・入口




〈 第 1 日 〉
10:00-12:00 理事会・編集委員会合同会議
12:00- 受付
          
↑1日目、受付・ロビーの様子



13:30-15:15 【国際会議場】
フォーラム1:コメニウスにおける世界の表象と教育的提示 ――図絵・修辞・身体」
報告: 北詰裕子(日本学術振興会特別研究員)
司会: 相馬伸一(広島修道大学)
概要:  表象の問題は現代に至るまで、近代教育学の中心的課題とされてきた。すなわち、次世代を担う〈子ども〉に向けて、教科書に典型的な教育メディアを通して、どのように有意味な世界連関を取捨選択、あるいは創出し、いかに再現・提示できるか、という問題である。コメニウス(J.A.Comenius,1592-1670)は、事物主義を唱え、それに伴う近代的教授方法論を展開したことをもって、こうした問題構成の端緒として位置づけられてきた。しかしこうした位置づけは、一定の形式として教育方法を受容し、その再調整を繰り返すことで各時代に適合した教育を模索するという立場からの歴史解釈によるものであるといえよう。
 本発表ではまず、『開かれた言語の扉』、『世界図絵』、『遊戯学校』にみられる彼の教育的提示・伝達形式を、一七世紀的な文脈(音声文化と印刷文化の混交、事物と言葉の認識論的布置、身体性とレトリックとの連関)の中で捉え直す。そのことによって、近代教育学におけるコメニウスの事物主義および教育方法論の位置づけを問い直す。この作業を通して最後に、私たちの足場をいまもって規定しているであろう教育における表象の問題を再考したい。 





15:30-17:15 【国際会議場】
フォーラム2:「遺伝学と教育の思想史」 
報告: 金森修(東京大学)
司会: 今井康雄(東京大学)
概要:  90年代半ば頃から生殖系列遺伝子改造論が、それまでの禁忌感を脱ぎ捨てて、正面から論じられるようになってきている。ヒトゲノムが特殊な神聖不可侵性をもつという考え方はむしろ今後維持するのが難しくなるので、改造論に向けた倫理的・哲学的・社会的議論を展開しておく必要はある。もっとも近年のヒト遺伝学の進展自体からは、昔のセントラルドグマをはるかに超えた、遺伝子と蛋白相互の間の相互作用の存在が浮かび上がってきている。その場合、単純な切り貼りが、仮にできたとしても、それが所期の効果をもたらすとはとうてい考えられない。だから、単純なデザイナー・チャイルド論は、実現可能性が低い。にもかかわらず私は、現時点で改造論に一定の目配りをしておくことは必要だと考えている。絶対音感、記憶力、気質、知性などが遺伝的要因をもっているという予想は一方でますます強くなりつつある現在、その種の遺伝的特性についての設計的介入の是非は、技術的・理論的障壁の存在如何に関わらず、いまから議論しておくべきだからだ。ここでは、いくつかの可能的な近未来の改造タイプを論じ、その基盤をなすはずの倫理原則とは何か、を探る。





17:30-18:15 総会 【国際会議場】
18:30-20:00 懇親会 【文理学部内食堂・さくら】

               



〈 第 2 日 〉
9:30-    受付





10:00-11:45 コロキウム 【会議室2-4】
コロキウム1:「啓蒙「と」教育 ―その絡みと捻れを考える―」  
企画: 鈴木晶子(京都大学)
報告: 鈴木晶子(京都大学)
弘田陽介(日本学術振興会特別研究員)
小野文生(京都大学研修員)
司会: 鈴木晶子(京都大学)
概要:  1970年代より啓蒙の終焉といわれて久しい。しかし、教育の終焉まで唱えるところに至ることなく今日に至っている。啓蒙と出自を同じくしながら、教育は自らの営みの正当性を確保するべき戦略を持ち合わせていたのだろうか? 啓蒙と教育とのこのねじれた関係をどのように捉えたらよいのだろうか? 私たちがいま教育近代化のはてに直面する「私たちの問題」と向き合う際に、啓蒙「と」教育の繋がりをいま一度考えてみたい、というのが今回の提案である。






コロキウム2:「教育学における優生思想の展開 ―歴史と展望―」
企画: 藤川信夫(大阪大学)
報告: 高木雅史(福岡大学)
根村直美(日本大学)
丸山恭司(広島大学)
司会: 藤川信夫(大阪大学)
概要:  生殖医療技術とヒトゲノム解析に代表される遺伝学の発展を前提として、今日再び優生思想が広まりつつある。この新たな優生思想はどのような特徴を持ち、日本の教育(学)に対してどのような影響を及ぼしうるのだろうか。遺伝子組み換え人間としてのデザイナーベイビーの誕生とそれに対する教育(学)的取り組みの問題は当面はSFファンタジーの世界の事として処理することができるにしても、(オーダーメード治療ならぬ)オーダーメード教育に対していかなる態度を取るのかという問題については論議を開始しておくべきではないのか。
こうした問いに対する回答を見いだすためには、まずは日本の教育(学)において特に1920年代以降活発化した優生学(優環学を含む)論議との比較のみならず、諸外国における趨勢との比較も必要となる。さらに、教育(学)における今後の議論の展開を予測する上でも、生殖医療や生命倫理の分野における議論との比較が求められるだろう。
 本コロキウムでは、こうした問題設定のもとで、(1)教育史の観点からは1930~40年代日本における優生学と教育の関係、(2)同じく教育史の観点から戦間期アメリカにおける優生思想の普及活動と今日のポストヒューマン・コントロール、そして(3)現代の生命倫理の観点から出生前診断を前提とした選択的中絶を巡る「自己決定権」の問題について論じるとともに、参加者の方々とともに、やがて到来するかもしれない「新優生学」時代における教育の夢/悪夢について議論を交わしたいと思う。





コロキウム3:「精神分析と教育 ―エディプス・コンプレックスをめぐって―」
企画: 須川公央(東京大学大学院)
報告: 下司晶(上越教育大学)
野見収(東京大学大学院)
須川公央(東京大学大学院)
コメンテーター: 塩崎美穂(東京大学大学院)
秋山茂幸(東京大学研究員)
司会: 波多野名奈(東京大学大学院)
西平直(東京大学)
概要:  精神分析と教育との関わりは、これまで主に教育(学)に対する精神分析(学)の応用という視点から論じられてきた。それは例えば、精神分析学に依拠した教育実践(S.アイザックスら)や1930年代のドイツにおける「精神分析的教育学 Psychoanalytische Pädagogik」にも見られるように、教育学の補助科学ないしは基礎科学としての精神分析学の有用性を問う一方で、他方において、精神分析学は批判理論や反権威主義教育との関わり合いを通じて、従来の教育(学)批判の理論的典拠としても援用・議論されて今日にまで至っている。
 本コロキウムでは、教育「目的」を達成する(もしくはそれを否定する)「手段」としての精神分析学という、従来のそうした「精神分析と教育」理解に一矢を放つべく、精神分析と教育との内的な構造的連関及びその差異を明らかにするところからまず議論を開始したい。その際、我々が共通のテーマとするのは「エディプス・コンプレックス」である。当日は、まず「精神分析におけるエディプス・コンプレックス理論の変遷」(下司)を追うことから始め、それを主に「教育関係論の視点から考察」(野見・須川)していきたいと考えている。











13:30-17:30 【国際会議場】
シンポジウム:「国家・グローバリゼーション・教育」」
提案: 小玉重夫(お茶の水女子大学)
越智康詞(信州大学)
野平慎二(富山大学)
司会: 田中智志 (山梨学院大学)
概要:  情報・経済のグローバリゼーションという現実がもたらす諸効果(それらに呼応して生まれつつある「帝国」[ネグリ/ハート])のなかで、国家はどのように位置づけられるのか、そして教育はどのような機能を付与される(べきな)のか。これが本シンポジウムの問いである。
 野平慎二氏  グローバリゼーションは、個人を国家の桎梏から解き放つと同時に、個人を国家の保護から引き離し過度の競争にさらしてゆく。その個人を保護するものは、やはり国家ではないだろうか。しかし、国家はこれまで、国民を保護するとともに、国民を非国民から区別し、非国民を排除してきた。そのやり方を踏襲するかぎり、グローバリゼーションは、国民としての要件は何かという問題を生みだす。それは、いいかえれば、個人のアイデンティティをどのようにイメージするか(共通なものか/多元的なものか、同一のものか/同一化するものか)といった問題である。
 越智康詞氏  グローバリゼーションは、すべてを再帰化・商品化し、生きるうえでの自然な支えを奪い、人びとを不安に陥れてゆく。その結果、ナショナリズムへの回帰、管理社会化による安心確保といった反動的な防衛反応が生じ、新自由主義のような適応的な防衛反応も生じる。それらの教育版が国民教育の強化、「新しい人材養成」であり、教育の自由化・民営化である。こうした教育改革がうまくいくとは考えにくい。しかし、グローバリゼーションによって露わになる他者性を承認し、あらたな市民的連帯をめざすなら、私たちは未来の可能性を見いだせるだろう。
 小玉重夫氏  グローバリゼーションは、ローザ・ルクセンブルクの考え方を借りていえば、資本主義の「外部」(たとえば、労働力商品化を拒否しているニート)を顕在化させていく。この外部を、ネグリ/ハートのように資本主義への抵抗者として位置づけるべきなのか、それとも、アレントのように労働価値説を相対化するあらたな市民の卵として位置づけるべきなのか。すくなくとも新しい「シティズンシップ教育」につながっていく議論は後者である。
 このように、グローバリゼーションの効果については三者三様であるが、その多様性は、むしろグローバリゼーションという現象を立体的にとらえるための足場であるといえるだろう。また、グローバリゼーションのなかで教育に求められる機能が、大まかにいえば、市民性形成に収束することも、予想できるだろう。問題はまさにその中身である(文責 田中智志)。

             





※発表者などの所属は2005年9月現在のものです。