History of Education Thought Society  教育思想史学会





大会報告−第16回大会(2006年)



                 
日程:

2006年9月17日(日)-18日(月)

会場:

日本女子大学目白キャンパス百年館

・JR山手線目白駅下車徒歩15分
・または、JR山手線目白駅前より新宿駅西口・椿山荘行き都バス(白61)日本女子大前下車徒歩110分
・または、営団地下鉄有楽町線護国寺駅下車徒歩約10分 

    大会プログラム    コロキアム案内

〈 第 1 日 〉
10:00−12:00 理事会・編集委員会
12:00- 受付(百年館1F ロビー)
13:30-15:15 フォーラム1(百年館502 号室)
フォーラム1「近代教育学の脱構築に向けてーエピソード「かさこじぞうのテクスト空間」の射程
報告: 西岡けいこ(香川大学)
司会: 田中毎実(京都大学)
概要:  子どもにとって、家庭とは、切るに切れない存在で在り続けるという意味での絶対的権威者である親の声に支配される、単一的ロゴスの時空であるのに対比して、複数者で文字を囲む時空である学校は、複数的ロゴスの時空である。 他なるものを含み差異化を生じさせるテクストの開けにおいて、原理的に、学校は家庭よりもはるかに勝っている。もとより人間にとってこの世界全体を意味生成の場の開かれる「教室」とみなせるが、学校にはその際立った可能性が認められる。そのことを、拙著『教室の生成のために』(2005年)に収録したエピソード「かさこじぞうのテクスト空間」にそくして具体的に示す。それを以て、かつてメルロ=ポンティが近代教育学の脱構築をめざしてなした教育学講義を、身体性を基底にするリテラシーを観る全体的な姿勢の回復の提起として、再解釈し、その現代的意義を論じる。 

15:30-17:15 フォーラム2(百年館502 号室)
フォーラム2:大人の教育としての哲学: デューイからカベルへ
報告: 齋藤直子(京都大学)
司会: 丸山恭司(広島大学)
指定討論: 田中智志(山梨学院大学)
概要:  目に見える成果を志向する発想に支配される今日の教育の中で、いかにして教育哲学は、思想と言語の自律性を維持しつつも何らかの有用性を示すことができるのであろうか。この問いへのひとつの応答として、本発表は、デューイの実践哲学における「終りなき成長」の思想の教育的意義を、カベルによるエマソンの道徳的完成主義との批判的対話に従事させることによって明らかにする。拙著、The Gleam ofLight: Moral Perfectionism and Education inDewey and Emerson (New York: FordhamUniversity, 2005)から、カベルの著作の拙訳書『センス・オブ・ウォールデン』(法政大学出版局2005 年)への移行の過程で浮かび上がってきた、「デューイからカベルへ」の思想史的継承と転換、連続性と非連続性の両義性を考察する。両者の批判的対話を通じて、「デューイからカベルへ」のアメリカ哲学が「大人の教育としての哲学」という教育的意義をもつものであることを導き出してゆく。

17:30−18:15 総会 (百年館502 号室)
          第3回教育思想史学会奨励賞表彰式

18:30−20:00 懇親会 日本女子大学生協食堂

〈 第 2 日 〉
9:30−  受付(百年館1F ロビー)
10:00−11:45 フォーラム3(百年館502 号室)
フォーラム3子どもの本とモラル・リフォーム―ジョン・ロック教育思想の受容と転用の一側面
報告: 岩下誠(東京大学大学院)
司会: 森田伸子(日本女子大学)
概要:  1780年代から90年代のイギリスでは、モラルの強調や改善を掲げ、奴隷貿易廃止・監獄改革・動物愛護などの社会改良運動が、中間層を主たる担い手として高揚した。この危機感は、アメリカ独立革命からフランス革命にかけて名誉革命体制が大きく動揺する中で、国家を支えるべき国教会の機能不全が教会の内外から認識されたことに起因する。同時期の日曜学校運動や教訓的な子どもの本の執筆や出版といった事態も、このようなモラル・リフォーム運動の一環として理解しなおされる必要があるだろう。
 そこで本報告では、1780 年代以降の女性教訓派作家を採り上げる。彼女たちは、勤勉、敬虔などのキリスト教道徳を注入するべくモラル・テイルズと呼ばれる児童文学ジャンルや教科書、子育て書などを著した。彼女たちの作品や思想そして具体的な運動を、モラル・リフォームを担う中間層の政治的および文化的戦略行為として把握し、さらにその教育思想や執筆活動において、彼女らがロック教育思想をどのように転用したかを明らかにしたい。

13:30-16:30 コロキウム(101 教室、102 教室、103 教室)
コロキウム1:文字の〈拡張〉:文字と教育の思想史pt.2
企画: 柴山英樹(聖徳大学)
渡辺哲男(日本女子大学)
司会: 森田伸子(日本女子大学)
報告: 杉本卓(千葉工業大学)
柴山英樹
渡辺哲男
概要:  一昨年の本学会大会・コロキウムで企画された「文字と教育の思想史」の続編である。前回は声/身体と文字の結節点と「教育」をめぐって、4人の報告者が自由にそれぞれの(歴史研究の)視点から報告を行った。今回もそうした報告のスタイルを継承しつつ、より今日的な文字の状況、そして声との直接的な対応関係をもたない「表意文字」を用いる日本語独特の問題の検討を出発点として議論を進めてみたい。たとえば、顔文字やギャル文字といった、若い世代がメールのなかで用いている新しい視覚記号としての「文字」の登場の意味や、最近流行している「ブログ」における読み書きの問題。あるいはその顔文字を起点とした、日本/西洋の事例を用いての「映像」と「文字」の境界線についての議論。さらには「絵本」やアニメーション作品などにおける、リズムや音を誘発する文字…。以上のような事例を具体的な素材として検討を行うことにしたい。そして、これまでの歴史研究の延長線上に今日における多様な「文字」を位置づけ、マルチメディアの時代において私たちが文字を学習することの意義を考えたい。

コロキウム2:身体のモノローグ/ダイアローグ
企画: 弘田陽介(関西大学)
司会: 弘田陽介
報告: 池田文一(池田醫院院長)
石田泰史(武術操身法遊武会主宰)
藤川信夫(大阪大学、コメンテイター)
概要:  身体および体育史をめぐって、この学会において何度も議論がなされてきた。そのような議論を踏まえて、日本の文化に根ざした身体技法の実践家を招き、身体にどのようなアプローチが可能かを問うワークショップ形式のコロキウムを行います。いくつかの身体技法の手ほどきを通して、自らの身体という一人称への語りかけが、他の身体に伝わっていくという精妙な経過を辿るものにできればと考えています。またそのアプローチを通して、オウム事件以後の近年の身体および教育をめぐる変動について、多様な視座から話ができる場をつくれればと思っています。構成としては、二人の報告者による約45分づつのワークショップ、コメンテイターによる質疑、そして皆様を交えての議論などを行う予定です。
 なお、当日は実際に身体を動かす時間を多くとりたいため、事前にテキストとなるものを遊武会HP(http://homepage2.nifty.com/ubk/)に用意しておきます。また”学会コスチューム”とは別に、動ける格好やタオルを持参していただければ幸いです。

コロキウム3:シュタイナー教育思想の現代的意義を問う
企画: 今井重孝(青山学院大学)
司会: 今井重孝
報告: 西平直(東京大学)pdf
衛藤吉則(広島大学)
今井重孝
コメンテーター: 矢野智司(京都大学)
概要:  シュタイナー教育に対しては、ますます注目度があ
がっているが、ルドルフ・シュタイナーの教育思想が教育思想史の中でどのように位置づけられるのかについては、まだ本格的な検討がなされていない。そろそろそうした作業を始めるべき機運が 熟してきたように思われるので、その手はじめとしてコロキウムにおいて、シュタイナー教育思想の現代的意義を問うというテーマを取り上げてみたい。シュタイナー教育思想には、独自の発達段階論、独自の感覚論、気質論、教師論、授業論など多くの鉱脈があるが、もちろんすべてを取り上げることはできない。今回は、「日本とシュタイナー」というテーマを補助線としてシュタイナー教育思想の現代的意義を測定してみたい。いいかえると、日本を迂回路としてシュタイナーの教育思想の現代的意義に迫ろうというわけである。具体的には、今までの日本におけるシュタイナー教育思想の受容の特徴と、日本の芸道とりわけ世阿弥の思想とシュタイナー思想の共鳴具合、シュタイナー教育思想と日本の現代思想、現代科学思想との響き合い、この三つの視角から、シュタイナー教育思想の現代的意義を考えてみたい。

※発表者などの所属は2006年9月現在のものです