History of Education Thought Society  教育思想史学会





大会報告-第18回大会(2008年)



                 
日程:

2008年9月12日(金)-13日(土)

会場:

奈良女子大学
       正面入り口と記念館講堂

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〈 前 日 〉

16:00-18:00 編集委員会(奈良女子大学生活環境学部大会議室)




〈 第 1 日 〉

9:00-11:00 理事会(奈良女子大学生活環境学部大会議室)

11:00-   受付

12:00-13:45 フォーラム1(記念館講堂) 近代日本における倫理的主体の形成と身体観の変容
報告: 鈴木康史(奈良女子大学)
司会: 樋口聡(広島大学)
概要:  われわれが「身体」について考察するとき、われわれは「身体」をすでにある自律した概念として(それが実体的であれ概念的であれ)考察してしまいがちである。しかし、「人間」について考察したり語ったりするのにおそろしく使い勝手が良い概念である「身体」は、「人間」の概念が揺れればそれに応じて揺れるだろうし、また、しばしば対にして使われる「精神」という概念が変容すれば変容する、そうしたいまだ不定形な概念なのではないか。本報告は、こうした不定形な「身体」概念が変容してゆくさまを、歴史的に描きだそうとする試みである。
 本報告では、まずは思想史的な視点から、明治から大正期にかけての近代的な「主体」(としての精神)の構築と「身体的なるもの」の脱落を論じ、またそれらがいかなる「実践」によって支えられていたのかについて、社会史的な視点も交えながら考察する予定である。ここで明らかにされるのは、変容する「人間」観の中で、さまざまに意味づけられる「精神/身体」概念の揺れであり、それらと恣意的に連結される「文」/「武」や「知」/「徳」/「体」といった人間把握のための枠組みをめぐる闘争の過程である。高等教育機関~アカデミズムを中心とした限定した場を対象とする議論ではあるが、「身体的なるもの」をめぐる一つの精神史を描き出せればと考えている。


                      



14:15-17:15    コロキウム(文学部N棟201、202、301、302教室)

コロキウム1 教育における「力」の概念

企画: 今井康雄(東京大学)
報告: 北原崇志 (東京大学大学院生)
 「ミシェル・フーコーにおける力の批判的分割――能力概念の由来と尊重関係の消失について」
田村謙典 (東京大学大学院生)
 「読み書き能力から「趣味」「内面」の育成へ――1910年前後の国語教育における「力」概念の登場」
田中智志 (山梨学院大学)
 「完全性と力――ヨーロッパ近代教育概念史の試み」

指定討論: 広田照幸 (日本大学)
概要:  「○○力」「力をつける」「力がある」等々、「力」を使った言い回しが盛んに流通しているのは、単なる流行現象というにとどまらず、われわれの教育の現状を示す一つの重要な徴候なのではないか。何の徴候なのか?--短期的に見れば、最近の20年くらいの間に明瞭になってきた労働条件の変化、それに伴う「人材」需要の変化・教育への期待の変化、ということが挙げられるだろう(短期的文脈)。しかしこの短期的変化は、より長期的な波動が生み出した波頭のようなものだ、ということも考えられる。人間を「力」として見るような人間観は長い歴史を持ち、そうした人間観は、近代の教育思想において、ポジティヴに評価されこそすれ、ネガティヴな含意は持っていなかった(長期的文脈)。19世紀末から20世紀にかけての新教育の時代には、子どもの中の「力」を事実として特定しようとする努力が、その「力」を引き出すことに教育の課題を見る新教育的な教育観とも結びついて様々に展開された(中期的文脈)。
 本コロキウムでは、以上のような教育における「力」概念の重層的な思想史的文脈を3つの報告によって浮き彫りにし、それをもとに自由な討論を行うことで、現代の教育の状況やそれを捉える認識枠組みにとって「力」という概念がどのような意味を持つのか、持つべきなのかを探りたい。

            



コロキウム2 歴史のなかの「読むこと」―ラーニングの比較思想=社会史の観点から―

企画: 松浦良充(慶應義塾大学)
司会: 松浦良充(慶應義塾大学)

報告: 北詰裕子(新潟産業大学・非常勤)、山梨あや(慶應義塾大学)、中村夕衣(京都大学)、翟高燕(慶應義塾大学大学院)
概要:  企画者は、従来の教育思想史研究に対する拡張・反省戦略として「ラーニングの思想史」を構想・提唱してきた。それは、「教育」に還元・回収されない知的営為の歴史的諸相や有り様を、「ラーニング」という概念で包括的にとらえ直した上で、私たちが現在自明視している「教育」とそれらとの関係構造を再定位しようとする試みである。
 このように「ラーニング」は包括的な概念枠組みとして設定されているが、初期の研究戦略としては、その包括性を逆手にとって、分節的にとりくみながらモノグラフを蓄積してゆくことが有効ではないか、と考えている。すなわち「ラーニング」の諸相としての、「読むこと」「書くこと」「聞く/聴くこと」「話す/語ること」「見る/観ること」「感じること」・・・・・・などである。そしてそれらの歴史的諸相を解明するには、単なる学習の概念史でもなく、 また他方単なる学びの実態史でもない、社会的(含・政治=経済的)文脈を視野に入れたIntellectural History(思想=社会史)として描く必要があるのではないか。
 今回はその試みの第1弾として、「読むこと」に焦点をあてる。


                              



コロキウム3 シュタイナー教育を思想史的に研究するということ
企画: 吉田敦彦(大阪府立大学)
司会: 吉田敦彦(大阪府立大学)
報告: 井藤元(京都大学大学院)、河野桃子(東京大学大学院)、水田真由(奈良女子大学大学院)、纐纈好子(大阪府立大学大学院/京田辺シュタイナー学校)
指定討論: 今井重孝(青山学院大学)、西平直(京都大学)
概要:

シュタイナー教育は、20世紀のもっとも成功した学校づくり運動(あるいは、失敗しなかった新教育運動)の一つとして紹介される。日本でも近年、シュタイナー学校がいくつか創設され、その教育思想に取り組む研究者も増えてきている。しかし、それを少し掘り下げて「研究」しようとすると、たちまちシュタイナー特有の、通常科学とは相いれない「特異な」世界観・人間観に突き当たることになる。
 そこでこのコロキウムでは、まずシュタイナーの教育思想を研究対象とする若手研究者に、自らの研究成果と、直面している困難とを、率直に語ってもらう。そして、その思想を「特異なオルターナティブ」としてではなく、たとえばゲーテ的科学や新教育運動もしくは新霊性運動といった、いくつかの思想史的系譜上に位置づけ直すことを試みつつ、コメンテイターとともに、そのような研究の意味と可能性を探る。また、実際に日本のシュタイナー学校での教育に携わりながら研究活動に関わっている立場からの報告も受けて、私たちの思想(史)研究が現実の教育に対して何をもたらし得るのかを考えてみたい。      
               

 


コロキウム4 教育実践に思想は不要か?
企画: 下司晶(上越教育大学)
司会: 下司晶
報告: 天野 幸輔(岡崎市立矢作北中学校/昭和大学医学部・兼任講師)、中橋 和昭(金沢市立押野小学校/上越教育大学大学院)、渡辺 正一(上越市立城北中学校/上越教育大学大学院)、力間 博隆(上越市立城北中学校/上越教育大学大学院)、衣川 由美子(名古屋市立西味鋺小学校/上越教育大学大学院)
コメント: 古屋 恵太(東京学芸大学)
概要:

「 新学力観」や「生きる力」の登場以降、学校教育においては、児童生徒に、主体的に学び、考え、判断する能力・態度を強く求めるようになってきている。かような教育活動を担保するためには教師自身にも同様の能力が必要とされるであろう。
 にもかかわらず昨今の教員養成課程では、教育実践技術の充実が声高に求められる一方で、教育理論・教育思想を学ぶことや、反省的思考力の育成に関しては、十分な意義が認められているとはいいがたいのではないか。こうした事情は、教職専門職大学院の設置や、教員免許更新制の導入など、現職教員の研修や再教育をめぐる状況でも同様のように思われる。
 そこで本コロキウムでは、教育実践における思想や理論の役割を検討することを目的とする。
 はたして、教育実践に思想や理論は不要なのだろうか――「理論-実践問題」をはじめとする議論の歴史を振り返りつつ、現代の学校教育現場の状況も含めて、有用性/必要性/可能性を検討していきたい。


    



17:30-18:15 総会(記念館講堂)

18:30-20:00 懇親会(学生会館)
                                                                                        



〈 第 2 日 〉9月13日(土)

9:00-    受付


10:00-11:45 フォーラム2(記念館講堂) 障害者解放理論から「他者への欲望」へ

報告: 森岡次郎(大阪大学)
司会: 野平慎二(富山大学)
    
      
概要:  生殖医療技術や遺伝技術の発展は、私たちの優生学的(能力主義的)欲望に支えられている。自分の子どもには「障害」なく、「五体満足」で生まれてきてほしい。生まれてくるからには、できるだけ高い身体的・精神的特性を身につけてほしい…。こうした私たちの欲望は、「障害者」を傷つけ、彼らの実存を脅かす。
 1970年代以降の障害者解放運動において、その中心的役割を担った「障害」当事者たちは、その卓抜した思想により、自らを苦しめる障害者差別の要因を、国家や大資本といった大きな権力の内にではなく、私たちの一人一人の欲望や心性の内に見出した。障害者解放運動において「障害」当事者たちが私たちの欲望についてどのように主題化し、批判してきたのか。本報告では、まずは彼らの到達した理論的成果と、残された課題について考察を行いたい。
 また、能力主義的欲望に基づいて次世代への働きかけを行う点において、優生学と教育は親和的である。そこで、彼らの思想や理論を教育関係へと敷衍し、「他者への欲望」という視座から、私たちに内在する欲望について、そして教育について考えてみたい。





13:00-16:00 シンポジウム(記念館講堂) 
        検証:思想運動としての教育思想史学会――私たちには何ができたのか/できなかったのか――

司会: 松浦良充(慶應義塾大学)
パネリスト:

広田照幸(日本大学)、原聡介(東京学芸大学名誉教授)、今井康雄(東京大学)、山内紀幸(山梨学院短期大学)

概要:  1991年設立の近代教育思想史研究会は、97年に教育思想史学会として新たな出発を試みた。私たちが「学会」としての歩みをはじめてから、11年が経過したことになる。私たちの選択とその後の歩みについて、中間的な検証を行ってもよい時ではないだろうか。
 研究会発足後10年を期した第10回大会で、原聡介会員報告によるフォーラム「教育思想史の課題と方法――近代問題にどう接近するか――」が開催された。原会員は、研究会から学会への転換について、次のような指摘を行っている。「しかし、そのことによって現代の教育に対する責任追及のための思想史的総点検といった研究の焦点性、傾向性、あるいは研究会設立趣意書で「思想運動」と呼んだ活力源を維持する力が弱くなることも認めておかなければならない。」(『近代教育フォーラム』第10号、p.27、2001年)
 学会としての10年余の活動は、「現代の教育」に対してどのような意味をもったのか。山積する教育問題に、変転する教育政策に、何をしてきたのか。また、私たちの多くが当事者としてかかわっている教員養成の諸課題や大学改革の動向に、学会の研究活動はどのように対峙してきたのか。あるいは、そもそも「思想史研究」という営みに対してこのような問いを立てること自体、思想と現実・実践・社会等々との関係についてのナイーブな思い入れに過ぎないのだろうか。
 現在、日本の冷戦期教育学が、教育(学)固有の価値や論理の追求を標榜することで、社会的=政治・経済的文脈から距離をおいてきたことに強い反省が加えられてきている。研究会時代には「近代教育学批判という思想運動」を志していた私たちの学会は、この反省の動向にどのように応答できるのだろうか。「思想運動」としてのエネルギーを、もはや私たちは失ってしまっているのだろうか。だとしたら、なぜ。あるいは、そもそもそれは憂慮すべきことなのか。
 第10回大会のフォーラムでは、どちらかといえば学会内部の方法論的問題に議論が焦点化されていた。今回のシンポジウムでは、それを念頭におきながらも、私たちの学会活動が、より広い教育(学)研究の動向のなかで、また現代社会における教育そのものに対して、どのような意義をもってきたのか/こなかったのか、についての検証にとりくみたい。それはある意味、「教育思想史学会の思想史」の試みでもある。そのうえで、学会としての将来展望について闊達な議論が展開されることを期待したい。