History of Education Thought Society  教育思想史学会





大会報告-第19回大会(2009年)



                 
日程:

2008年9月12日(金)-13日(土)

会場:

大阪大学 コンベンションセンター(大阪大学 吹田キャンパス) 
         〒565-0871 大阪府吹田市山田山1-1


         コンベンションセンター

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〈 第 1 日 〉

9:00-11:00 理事会・編集委員会合同会議(会議室2C

11:00-   受付



12:00-13:45 フォーラム1(会議室2A・B) 生成と物語――語りと語り直しの可能性の思想史

報告: 野平慎二(富山大学)
司会: 小玉重夫(東京大学)
概要:  物語論の知見に従えば、私たちの認識は物語によって可能となる。社会的な現実も、自己アイデンティティも、つねに言葉を媒介とした相互作用的な構築物である。意味の客観性を否定し、支配的な物語のもつ権力性を指摘・解体した物語論の功績は大きい。
 物語論は、研究方法論にとどまらず、治療や援助にも応用されている。それまでのクライアントの物語が語り直され、編み替えられ、新しい自己の物語として刷新される。治療者はそこでは、外的な意味付与者ではなく、協働する作り手である。
 他方、言葉が共約不可能なものである以上、協働はつねに失敗の可能性を含んでおり、治療の成功は保障されてはいない。成功とみえる刷新も、新しい支配的な物語へのとらわれの始まりかもしれない。
 物語のなかでの自己の生成-この可能性(実効性、ではなく)は、いかなる思想史的背景をもつのだろうか。協働する作り手という理解は、人間形成の描き直しを試みてきた私たちのパフォーマンスに、いかなる示唆を与えるのだろうか(私たち自身がクライアントなのかもしれない)。フォーラムでは、これらの問題設定を糸口として、物語と人間生成のかかわりについて考えたい。


               



14:15-17:15    コロキウム(会議室2A・B、会議室3、研修室)


コロキウム1 〈近代=世俗化〉の物語を再考する
                ──Ch. Taylor, A Secular Age (2007)をめぐって

企画: 室井麗子(岩手大学)
司会: 加藤守道(東北大学)
報告: 生澤 繁樹(名古屋産業大学)、矢田 訓子(東北大学大学院)、室井 麗子
指定討論: 田中智志(山梨学院大学)
概要:  チャールズ・テイラーは近著A Secular Age(2007) のなかで、近代の「世俗の時代」を良くも悪くも「人間の繁栄を超えたあらゆる目的が失墜」した時代だと描いている。自己の生を超えた目的やそれ以上の高次な善があるという感覚、あるいは超越的神の存在を信じること。近代はそうしたナイーヴな認識に秘められたまやかしから私たちを解き放ち、自己充足と理性によるヒューマニズムの道を用意した。近代の科学や合理性の障碍となる宗教や超越のコスモスは人びとの世界や公共空間から取り除かれ、あらゆる魔術が減算されることによって、近代の自己や社会の制度がよりよく実現されてゆく。しかしテイラーは、モダニティを「引き算」(subtraction)として描ききるこのような通俗的物語を拒絶し、書き替えようとする。テイラーによれば、近代の世俗化は、人間を超えた要因や力の足枷から充分に自由にするとともに、「内在性」をともなう新しい自己理解とその様式を獲得した。ところがそれとともに“孤独”や“意味喪失”などの近代文化固有の「不安」や「不幸」もまたはらんでしまったというのである。本コロキウムでは、このテイラーの素描の意義と問題点を批判的に継承しながら〈近代=世俗化〉の物語を再考する。近代教育批判を成り立たせてきた通説や枠組みを考えなおすための視点を獲得してみたい。

            



コロキウム2 ウィーン、その思想的磁場の解読:ユダヤ性、精神分析、科学哲学、教育思想

企画・司会: 丸山恭司(広島大学)
指定討論 今井康雄(東京大学)
報告: 小野 文生 (京都大学)、下司 晶( 日本大学)、丸山 恭司
概要:  「世紀末ウィーン」という思想理解は、この都市が単に保守的できらびやかな音楽の都に留まらないことを改めて教えてくれた。多様な思想実践が19世紀末の大都市ウィーンにおいて様々に展開され、その後の思想情況に多大な影響を与えているのである。しかしまた、その思想実践はあまりに複雑に絡み合っているために、およそ展望することが難しい。たとえば、ユダヤ神秘主義と精神分析学はいかに同調し、いかに反発しあったのか。そこに、マルクス主義と論理実証主義がどのように絡んでくるのか。既存の単純なウィーン理解ではこれらの問いに答えるのは容易ではない。まして、ウィーンの思想実践が教育思想に与えた影響について正当に評価可能な枠組みをわれわれはいまだ持ち合わせていないように思われる。
 そこで、本コロキウムでは、ウィーンが思想的磁場として多様な思想実践を取り込み変容させていった様態に異なる切り口から迫り、一つの展望をうることを目指す。まず、小野がユダヤ神秘思想を中心に、下司が精神分析学を中心に、そして、丸山が科学哲学を中心に、思想的磁場としてのウィーンを描く。そうして、教育思想史理解の枠組みを拡げるための新たな鳥瞰図を得たい。


                 



コロキウム3 主体性の超克は現か夢か――「不眠症」の時代の教育思想

企画: 井谷信彦(京都大学)
司会: 西平直(京都大学)
報告: 平石晃樹(東京大学大学院)、宮崎康子(神戸女学院大学)、井谷信彦
概要:

ひとたび自律した主体として目覚めた人間は、再び安らかな眠りに就くことができるのだろうか。これが本コロキウムの提起する問いである。現代の教育思想は、人間の主体性・自律性といった理念が抱える諸々の限界に直面しており、これに代えて他者性・超越性・脱主体性などの概念が、改めて重要視されている。近代のヒューマニズムやそれに棹さす教育言説に対する疑念は、「共約不可能な他者」「主体の恣意を越えたもの」に対して注意を払うことを要請している。しかしながら、教育が「人間による人間のための」営みとして把握されているかぎり、主体性・自律性とは相容れないはずのこれらの諸理念もまた、結局は主体としての人間の成長発達のプロセスに絡め取られてしまうだろう。主体としての人間による主体としての人間の超克という試みに望みはあるのか。この問題について本コロキウムでは、主体としての人間を中心とする安直なヒューマニズムに疑義を呈した三つの思想=レヴィナスの他者論、バタイユの超越論、ハイデガーの存在論を手掛かりとして、考察を深めることを試みたい。


                



17:30-18:15 総会(会議室1)

18:30-20:00 懇親会(カフェテリア匠)
                                                                                         




〈 第 2 日 〉9月13日(日)

9:00-    受付


10:00-11:45 フォーラム2(会議室1) デューイというモナドが映す有機的統一の思想
                   ――若きデューイと「個人の時代」を考える――



報告: 古屋恵太(東京学芸大学)
司会: 松下良平(金沢大学)
      
      
概要:  ヘーゲル主義者として有機体的観念論を支持した若きデューイ。精神と物質、宗教と科学、普遍性と個別性を有機的に統一することを切望する彼の姿は、当時のセントルイスのヘーゲル主義者の精神をデューイという個体のうちに表象・体現したものと見ることができる。だが、それを一思想家の発展史の出発点として、やがて捨て去られる途上性と理解するのではなく、歴史主義化されたモナドとして見てみよう。そして、近代の主観性の歴史を分析したルノーが、ライプニッツに主体を蝕む哲学的個体主義の誕生を、また、哲学的個体主義の頂点をヘーゲルに見たことを想起しよう。ルノーの紡ぐ物語をそのまま生きるかのように、ヘーゲル主義に立ち、ライプニッツを積極的に評価したデューイというモナドが映すのは、近代から今日に至る「個人の時代」であろうか。それとも別の何かなのか。ヘーゲル主義の影響が生涯デューイに残り続けたとする近年の研究や、同時代にデューイと同様にライプニッツについて論じたタルド(彼の道はドゥルーズに続く)も手掛かりとしながら、若きデューイの思想を考察することを通して、「個人の時代」と対峙してみたい。



13:00-14:45 フォーラム3(会議室1) 
        教育思想の読み/解釈における戦略・戦術と倫理


報告: 岡部美香(京都教育大学)
司会:

鳶野克己(立命館大学)

概要:  教育や人間形成に関わる思想は、どのように読まれ/解釈されるのだろうか。
 一般に、思想のテクストはある一定の内的構造をもち、私たちはその構造に忠実に読む。他方、思想の読者である私たちはつねにすでにある一定の「地平」に在り、この「地平」において形成されるパースペクティブからテクストを解釈する。その場合、読者によって「地平」が異なるならば、あるいは「地平」そのものが生成するならば、テクストと読者の相互作用のなかで生み出される意味にはそのつど差異が生じる。換言するなら、テクストの意味解釈には多様な可能性があり、それらはつねにすでに党派性を帯びている。
 教育思想を読み/解釈することにおいて成立する教育思想研究は、当該教育思想の真理性を問う学理的研究とその歴史性を問う歴史的研究に大別されるといわれるが(教育思想史学会編『教育思想事典』p.149)、では、党派性を帯びたさまざまな意味解釈が交錯するなかで、ある真理性ないし歴史性はどのように立ち上がってくるのだろうか。そこでは、いかなる戦略・戦術(M. de Certeau / R.Chartier)が行使され、その際、いかなる倫理が必要とされるのか。これらの問いを通して、教育思想研究の(社会的)意義が問われる今日、あらためて教育思想を読む/解釈するという出来事の生起について考えてみたい。