■『近代教育フォーラム』第10号(2001)
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〈巻頭言〉 |
宮寺晃夫: |
「失われた10年」に獲たもの
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〈会長就任論文〉 |
今井康雄: |
教育学における経験・表象・仮想性
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〈フォーラム1 「教育思想史の課題と方法 ―近代問題にどう接近するか」〉 |
原聰介: |
報告:教育思想史の課題と方法 ―近代問題にどう接近するか
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桜井佳樹: |
司会:教育思想史研究の論争点 ―教育思想史学会のこれまでとこれから
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田代尚弘: |
コメント:教育思想史の方法と課題 ―教育的想像力のために
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下司晶: |
コメント:教育思想史の課題と方法に寄せて ―近代教育学批判のアクチュアリティ―
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〈フォーラム2 「読み書きの思想史」〉 |
森田伸子: |
報告:近代教育と読み書きの思想
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小松佳代子: |
司会:「書く」という行為をめぐる思想史の可能性
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片桐芳雄: |
コメント:日本のなかの「考える」「聴く」「話す」「読む」「書く」
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山崎洋子: |
コメント:新教育研究における新たな「意味」の創出
―テクストと教育実践/物語とリアリティ―
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〈シンポジウム 「教育学における臨床知の歴史」〉 |
皇紀夫: |
報告:教育学における臨床知の所在と役割
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鈴木晶子: |
報告:教育思想における臨床知伝承の可能性と限界
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松下良平: |
報告:排除と再組み込み ―教育学における「臨床知」発見の両義性
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田中智志: |
司会:教育の臨床知 ―クリティカルな知のモード
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宮寺晃夫: |
コメント:臨床教育学への期待と疑問 ―「クリニカル」は「クリティカル」か―
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山内紀幸: |
コメント:教育学における臨床知の扱い方
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〈コロキウム〉 |
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山名淳:
宮本健市郎:
山崎洋子:
渡邊隆信:
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新教育運動における「共同体」形成論 |
古屋恵太: |
文化、道具箱、及び媒介された行為 ―言語論的展開を拒否するプラグマティズム―
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上野正道:
室井麗子:
北詰裕子: |
教育思想史再考 ―近代教育批判の視点に着目して(2) ― |
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〈投稿論文〉 |
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岡部美香: |
子ども中心主義の教育学と優生学のインターフェイス
―E・ケイ『児童の世紀』に見る自律的な主体であることという呪縛―
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木村浩則: |
アレント教育論における「保守」と「革新」
―ハンナ・アレントの教育理解再考―
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〈図書紹介〉 |
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今井康雄: |
Bokma, Horst: Das Padagogische Experiment des Schreibenden.
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〈リプライ〉 |
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弘田陽介: |
身体の「詩学」というもくろみ ―境界において境界そのものを語ること―
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〈アゴラ〉 |
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荻路貫司: |
今なぜ学力問題なのか
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山名淳: |
教育空間論ブームの到来? ―ドイツにおける教育学の一動向―
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〈書評〉 |
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岡村達雄: |
価値多元的社会の教育構想―卓越主義的リベラリズムの射程
―宮寺晃夫『リベラリズムの教育哲学』―
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新井保幸: |
坂越正樹『ヘルマン・ノール教育学の研究
―ドイツ改革教育運動からナチズムへの軌跡』
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大内裕和: |
藤田英典・志水宏吉編『変動社会のなかの教育・知識・権力』
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今井重孝: |
エリート中等教育の比較社会史の試み ―橋本伸也ほか『エリート教育』―
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田中智志:
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架橋する知の理論へ
―バーンスティン『〈教育〉の社会学理論』―
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室井麗子: |
スローン『洞察=想像力―知の解放とポストモダンの教育』(市村尚久・早川操監訳)
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■『近代教育フォーラム』第11号(2002)
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荻路貫司: |
第11号の刊行にあたって |
〈フォーラム1 「教育における他者性」〉 |
丸山恭司: |
報告:教育という悲劇、教育における他者 ―教育のコロニアリズムを超えて―
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田中智志: |
司会:他者への教育 ―ニヒリズムを反転させる脱構築―
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齋藤直子: |
コメント:教育の希望
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久保田健一郎: |
コメント:教育学の新たなる地平 ―ポストコロニアリズムと教育学の交錯―
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〈フォーラム2 「レトリックから修辞学へ」〉 |
加藤守通: |
報告:薬としてのロゴス
―西洋教養史におけるレトリック/ヒューマニズム的伝統の再考―
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矢野智司: |
司会:「薬としてのロゴス」あるいはまた「毒としてのロゴス」
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村島義彦:
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コメント:「毒」から「薬」へ―レトリック評価のパラドクサ
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片山勝茂: |
コメント:教養のレトリック・ヒューマニズム的伝統における公共性・言語・知
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〈シンポジウム 「教育的関係の概念装置 ―<教え―学ぶ>関係を問い直す」〉 |
広田照幸: |
報告:<教える―学ぶ>関係の現在
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松下晴彦: |
報告:教育的関係の神秘性とリアリティ
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松浦良充: |
報告:教育関係論から「学び」論へ ―Learningの思想史に向けて―
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鳥光美緒子: |
司会:教育における反省知の可能性をめぐって
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高橋勝: |
コメント:<教える―学ぶ>関係の非対照性
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生田久美子: |
コメント:教育的関係の基礎概念としての「ケア」 |
〈コロキウム〉 |
鈴木晶子:
弘田陽介:
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自作自演 ―教育詩学をめぐる往復書簡
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小玉重夫:
野平慎二:
松下良平:
宮寺晃夫: |
リベラリズムの「再審」をめぐって
―宮寺晃夫『リベラリズムの教育哲学』をもとにして
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〈投稿論文〉 |
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河野誠哉: |
近代日本の児童研究の系譜における認識論的転換
―分析視角の移動とその近代学校論的意味―
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平井悠介: |
教育における公共性の創出
―Amy Gutmannの「意識的社会再生産」概念を中心に― |
〈書評〉 |
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今井康雄: |
鈴木幹雄著『ドイツにおける芸術教育学成立過程の研究―芸術教育運動から初期G・オットーの芸術教育学へ―』
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西平直: |
菱刈晃夫著『ルターとメランヒトンの教育思想研究序説』
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北詰裕子: |
17世紀的な知の空間と教育思想の形成
相馬伸一著『教育思想とデカルト哲学―ハートリブ・サークルの知の連関』
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鈴木晶子: |
クリストフ・ヴルフ著/高橋 勝監訳『教育人間学入門』
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〈海外学会情報〉 |
山名淳: |
ルーマン『社会の教育システム』出版記念研究会議に参加して
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■『近代教育フォーラム』第12号(2003)
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田中智志: |
巻頭言 ―アポリアへの態度 |
〈フォーラム1 「人間形成における垂直軸の問題」〉 |
西平直: |
報告:「無の思想」と子ども
―「無の思想」を「教育の問い」の前に連れ出す試み |
田中毎実: |
司会:発達論的図式から構造論的図式へ ―報告で残された課題について |
岡部美香: |
コメント:「非有」という視座 |
衞藤吉則: |
コメント:人間形成における「垂直軸」の構造
―新たな発達論とカオスの開かれた弁証法として |
〈フォーラム2 「17世紀の教育思想」〉 |
相馬伸一: |
報告:17世紀の教育思想 ―その再解釈のためのいくつかのアプローチ |
森田伸子: |
司会:学習概念の変容:コメニウス以前以後 |
宮寺晃夫: |
コメント:経験論と合理論は‘結合’するか ―合理論的学習論の可能性 |
菱刈晃夫: |
17世紀教育思想の地下水脈 |
〈シンポジウム 「コロニアリズムとしての教育学」〉 |
駒込武: |
報告:植民地支配と近代教育 ―ある台湾人知識人の足跡 |
藤川信夫: |
報告:人種主義と異文化否定の間に立つ教育学 ―沢柳政太郎の教育学について |
安川哲夫: |
報告:近代教育思想における「文明」と「野蛮」 |
原聡介: |
司会:コロニアリズムの視座は近代教育学の学的体質をどこまで問えるか |
片桐芳雄: |
コメント:コロニアリズムと教育学 |
今井康雄: |
コメント:神話と啓蒙の間で |
〈コロキウム〉 |
加藤守通: |
フーコー講義録(1975−1976年)を読み解く
―『異常者たち』と『社会は防衛しなければならない』をめぐって |
原田寿江子: |
室井麗子: |
鳥光美緒子: |
内部観測アプローチの可能性 ―ルーマン、シュタイナー、マラグッツィ |
今井重孝: |
上地完治: |
ジルーの批判的教育学 ―その意義と問題点をめぐって |
小林大祐: |
澤田稔: |
山名淳: |
「記憶の場」に関して視覚文化論と教育学を接合する試み
―あるいは、ファシズム/ホロコーストを伝える空間と芸術 |
香川檀: |
〈投稿論文〉 |
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下司晶: |
〈現実〉から〈幻想〉へ/精神分析からPTSDへ
―S・フロイト〈誘惑理論の放棄〉読解史の批判的検討 |
江口潔: |
田中寛一の職業指導論 ―戦間期における人材配分と職業指導
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