History of Education Thought Society  教育思想史学会





『近代教育フォーラム』目次


創刊号−第3号 第4号−第6号 第7号−第9号 第10号−第12号

第13号−第15号


第16号


* * * * * * * * * * * * *

第7号(1998)  第8号(1999)  第9号(2000)




『近代教育フォーラム』第7号(1998)※品切れ

〈会長就任論文〉
森田尚人:

失われた記憶
 ―思想史研究におけるマルクス主義の問題―


〈フォーラム1〉
生田久美子:

報告:「認識」問題の現在
    ―新たな「知識観」の確立へ向けて―  

今井康雄:

司会:知識論の教育思想史的文脈
    ―生田論文へのコメント―

樋口聡:

コメント:<認識>問題と<教育>を問うことをめぐるいくつかの疑問

丸山恭司:

コメント:知識論と教育実践のあいだ


〈フォーラム2〉
矢野智司:

報告:教育の起源をめぐる覚え書き

松浦良充:

司会:なぜ「教育の起源」なのか

相馬伸一:

コメント:教育の起源と聖−俗−遊

今井重孝:

コメント:「教育の起源」論の射程


〈フォーラム3〉
山内芳文:

報告:ディルタイの教育論における歴史的なもの

小笠原道雄:

司会:ディルタイの教育論における歴史的なもの
    ―山内論文再読―

鈴木晶子:

コメント:教育思想の歴史を書くという営為
      ―山内論文「ディルタイの教育論における歴史的なもの」への論評―

金子茂:

コメント:教育思想史研究に関する覚書
      ―山内氏のディルタイ教育論の読解によせて―


〈投稿論文〉
上原秀一: 日本近代教育における個別化理論の形成
 ―大正新教育のドルトン・プラン移入を手がかりに―

〈リプライ〉
鳶野克己:

それでもやはり「非同一性」のほうへ


〈書評〉
田中智志:

青年という虚構を実体化するもの
 ―北村三子『青年と近代――青年と青年をめぐる言説の系譜学』―

鳥光美緒子:

教育学を研究することと教えることをめぐって
 ―京都大学高等教育授業システム開発センター編『開かれた大学授業を目指して』―

山名淳:

「新教育の地平」をめぐって
 ―今井康雄『ヴァルター・ベンヤミンの教育思想』―  

小玉重夫:

多文化主義からみたハンナ・アーレント
 ―Natasha Levinson, "Teaching in the Midst of Belatedness," Educational Theory.―

山室吉孝:

宗教的ヒューマニズム
 ―Steven C. Rochefeller, John Dewey: Religious Faith and Democratic Humanism.― 




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『近代教育フォーラム』第8号(1999)


田中智志 :

第8号の刊行にあたって

〈フォーラム1 「言語と教育」〉
宮寺晃夫:

報告:言語と教育:分析は思想を超えられるか

田代尚弘: 司会:近代教育理論の伏流
    ―宮寺論文の水脈―
堤大輔:

コメント:教育理論の普遍的言語の何が悪いのか?
      ―特に「教育理論の自律」と「分析」について―

坂倉裕治: コメント:教育言説の「普遍性」と歴史性

〈フォーラム2  「精神科学的教育学」〉
小笠原道雄:

報告:精神科学的教育学の思想史的考察

金子茂:

司会:教育思想史研究に関する覚書(その2)
    ―小笠原氏の『精神科学的教育学の研究』によせて―

新井保幸:

コメント:精神科学的教育学はなぜ超えられないのか

原聰介:

コメント:精神科学的教育学への期待


〈フォーラム3  「身体論と教育」〉
樋口聡:

報告:身体論と教育
    ―問題の枠組みとひとつのプロレゴメナー―

阿部生雄:

司会:「プロレゴメナ」の射程と波紋

弘田陽介:

コメント:「身体論」と「教育学」と「美学」と……

清水重勇:

コメント:教育における《身体知》の自明性へのひとつの問い


〈シンポジウム  「美と教育」〉
真壁宏幹:

報告:美的人間形成の<脱−歴史化>
    ―1910〜1920年代ドイツの芸術活動と芸術教育実践の考察を通して―

山田忠彰:

報告:美の幻想性とスタイル化

西村拓生:

報告:プリズムとしてのシラー 『美育書簡』
    ―「美と教育」に関するトピカのために―

今井康雄:

司会:「美と教育」の二つの焦点
    ―シンポジウムでの議論を回顧して―

鈴木晶子: コメント:思想史研究の方法としてのフィクション
      ―美と教育の連動にみる「ドイツ的なるもの」―
斎藤桜子:

コメント:プロブレマティークとしての美的教育
      ―レトリック、ポエジー、ロマン主義―


〈投稿論文〉
山内紀幸:

「自由から規律が生まれる」という物語
 ―「モンテッソーリ・メソッド」の成立過程の分析から―

山名淳: 教育学における<大都市/田園>図式
 ―J.テウスとH.リーツの教育論を中心に―

〈研究動向紹介〉
今井康雄:

ドイツにおける二つの教育学専門誌の創刊をめぐって

田中智志: 雑誌Educational Theoryの「批判的教育学特集号」をめぐって

〈書評〉
北村三子:

神話学的方法は過去と出会えたか
 ―藤川信夫『教育学における神話学的方法の研究』―

荻路貫司:

坂倉裕治『ルソーの教育思想』

菅野文彦:

教育の「社会学的歴史」あるいは「反省科学」のゆくえ
 ―田中智志『ペダゴジーの誕生』―

上地完治:

教育の自明性と学校の自明性
 ―田中智志『教育の解読』―

鳥光美緒子:

池田全之『シェリングの人間形成論研究』




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『近代教育フォーラム』第9号(2000) 

森田伸子:


第9号の刊行にあたって


〈フォーラム1  「戦後教育再考」〉
大内裕和:

報告:戦後教育再考―戦時/戦後の区分を超えて―

高橋浩:

司会:戦時動員体制の終焉とグローバリゼーション

小玉重夫: コメント:戦後教育学と国民国家 
岡村達雄:

コメント:「戦後教育学」とは何か
      ―教育における<近代>批判をめぐって―


〈フォーラム2  「都市と教育」〉
山名淳:

報告:都市と教育―<都市の教育思想史>序説―

高橋勝:

司会:「都市と教育」を論ずる視点
    ―思想史的方法と現象学的方法―

渡邊隆信:

コメント:ゲゼルシャフトとしての大都市/ゲマインシャフトとしての学校

森岡修一:

コメント:文化的・社会的テクストとしての都市空間


〈シンポジウム  「学級の思想」〉
安川哲夫:

報告:モニトリアル・スクールは近代学校の原型か?
    ―「クラス」と「一斉教授」について再考する― 

田中毎実:

報告:学級の日常的生成と歴史的生成

今井重孝:

報告:オートポイティック・システムとして学級を観察する
    ―システム論を「学級」観察に応用する―

森田伸子:

司会:近代性としての学級と子ども

宮本健市郎: コメント:学級と学年と教育の個性化
小松佳代子:

コメント:「学級」のオペレーション史へ向けて


〈コロキウム〉
田中智志:

冗長性のコミュニケーション
 ─ルーマン・教育理論・ポストモダニティ─ 

樋口聡:

教育思想研究におけるミーメーシス概念の可能性


下司 晶:
上原秀一:
江口 潔:
綾井桜子:
渡邊樹子:


教育目的論議を再読する
 ―近代教育批判の視点に着目して―


〈投稿論文〉
弘田陽介:

バゼドウ『基礎教科書』における身体
 ―教育と身体の連動を思想史的に問い返す―


〈図書紹介〉
今井康雄: Silvia Hedenigg: Kindheitsbegriffe japanischer Strafkonzeption

〈リプライ〉
樋口聡: 誤解について、あるいはテキストの隠れた次元

〈書評〉
原聰介:

清水重勇『スポーツと近代教育 フランス体育思想史』

宮寺晃夫:

リベラリズム教育哲学の「再審」請求
 ―小玉重夫『教育改革と公共性』を読む―

松浦良充:

教育思想史研究は近代教育を再構築できるか
 ―小笠原道雄監修『近代教育思想の展開』・『近代教育の再構築』―

矢野智司:

教育学的人間学とは何(だったの)か、…そして何でありうるのか
 ―氏家重信『教育学的人間学の諸−その多様性と統一性』―

氏家重信:

日本の戦後教育学思想の峰々を縦走する
 ―皇紀夫・矢野智司編『日本の教育人間学』―

川瀬邦臣:

ドイツ新教育研究における「解釈」と「評価」
 ―山名淳『ドイツ田園教育舎研究』―




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