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■『近代教育フォーラム』第7号(1998)※品切れ |
〈会長就任論文〉 |
森田尚人: |
失われた記憶
―思想史研究におけるマルクス主義の問題―
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〈フォーラム1〉 |
生田久美子: |
報告:「認識」問題の現在
―新たな「知識観」の確立へ向けて―
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今井康雄: |
司会:知識論の教育思想史的文脈
―生田論文へのコメント―
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樋口聡: |
コメント:<認識>問題と<教育>を問うことをめぐるいくつかの疑問
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丸山恭司: |
コメント:知識論と教育実践のあいだ
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〈フォーラム2〉 |
矢野智司: |
報告:教育の起源をめぐる覚え書き
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松浦良充: |
司会:なぜ「教育の起源」なのか
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相馬伸一: |
コメント:教育の起源と聖−俗−遊
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今井重孝: |
コメント:「教育の起源」論の射程
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〈フォーラム3〉 |
山内芳文: |
報告:ディルタイの教育論における歴史的なもの
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小笠原道雄: |
司会:ディルタイの教育論における歴史的なもの
―山内論文再読―
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鈴木晶子: |
コメント:教育思想の歴史を書くという営為
―山内論文「ディルタイの教育論における歴史的なもの」への論評―
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金子茂: |
コメント:教育思想史研究に関する覚書
―山内氏のディルタイ教育論の読解によせて―
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〈投稿論文〉 |
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上原秀一: |
日本近代教育における個別化理論の形成
―大正新教育のドルトン・プラン移入を手がかりに― |
〈リプライ〉 |
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鳶野克己: |
それでもやはり「非同一性」のほうへ
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〈書評〉 |
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田中智志: |
青年という虚構を実体化するもの
―北村三子『青年と近代――青年と青年をめぐる言説の系譜学』―
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鳥光美緒子: |
教育学を研究することと教えることをめぐって
―京都大学高等教育授業システム開発センター編『開かれた大学授業を目指して』―
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山名淳: |
「新教育の地平」をめぐって
―今井康雄『ヴァルター・ベンヤミンの教育思想』―
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小玉重夫: |
多文化主義からみたハンナ・アーレント
―Natasha Levinson, "Teaching in the Midst of Belatedness," Educational
Theory.―
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山室吉孝: |
宗教的ヒューマニズム
―Steven C. Rochefeller, John Dewey: Religious Faith and Democratic Humanism.―
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■『近代教育フォーラム』第8号(1999)
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田中智志 : |
第8号の刊行にあたって |
〈フォーラム1 「言語と教育」〉 |
宮寺晃夫: |
報告:言語と教育:分析は思想を超えられるか
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田代尚弘: |
司会:近代教育理論の伏流
―宮寺論文の水脈― |
堤大輔: |
コメント:教育理論の普遍的言語の何が悪いのか?
―特に「教育理論の自律」と「分析」について―
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坂倉裕治: |
コメント:教育言説の「普遍性」と歴史性 |
〈フォーラム2 「精神科学的教育学」〉 |
小笠原道雄: |
報告:精神科学的教育学の思想史的考察
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金子茂: |
司会:教育思想史研究に関する覚書(その2)
―小笠原氏の『精神科学的教育学の研究』によせて―
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新井保幸:
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コメント:精神科学的教育学はなぜ超えられないのか
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原聰介: |
コメント:精神科学的教育学への期待
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〈フォーラム3 「身体論と教育」〉 |
樋口聡: |
報告:身体論と教育
―問題の枠組みとひとつのプロレゴメナー―
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阿部生雄: |
司会:「プロレゴメナ」の射程と波紋
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弘田陽介: |
コメント:「身体論」と「教育学」と「美学」と……
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清水重勇: |
コメント:教育における《身体知》の自明性へのひとつの問い
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〈シンポジウム 「美と教育」〉 |
真壁宏幹: |
報告:美的人間形成の<脱−歴史化>
―1910〜1920年代ドイツの芸術活動と芸術教育実践の考察を通して―
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山田忠彰: |
報告:美の幻想性とスタイル化
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西村拓生: |
報告:プリズムとしてのシラー 『美育書簡』
―「美と教育」に関するトピカのために―
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今井康雄: |
司会:「美と教育」の二つの焦点
―シンポジウムでの議論を回顧して―
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鈴木晶子: |
コメント:思想史研究の方法としてのフィクション
―美と教育の連動にみる「ドイツ的なるもの」― |
斎藤桜子: |
コメント:プロブレマティークとしての美的教育
―レトリック、ポエジー、ロマン主義―
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〈投稿論文〉 |
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山内紀幸: |
「自由から規律が生まれる」という物語
―「モンテッソーリ・メソッド」の成立過程の分析から―
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山名淳: |
教育学における<大都市/田園>図式
―J.テウスとH.リーツの教育論を中心に― |
〈研究動向紹介〉 |
今井康雄: |
ドイツにおける二つの教育学専門誌の創刊をめぐって
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田中智志: |
雑誌Educational Theoryの「批判的教育学特集号」をめぐって |
〈書評〉 |
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北村三子: |
神話学的方法は過去と出会えたか
―藤川信夫『教育学における神話学的方法の研究』―
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荻路貫司: |
坂倉裕治『ルソーの教育思想』
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菅野文彦: |
教育の「社会学的歴史」あるいは「反省科学」のゆくえ
―田中智志『ペダゴジーの誕生』―
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上地完治: |
教育の自明性と学校の自明性
―田中智志『教育の解読』―
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鳥光美緒子: |
池田全之『シェリングの人間形成論研究』
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■『近代教育フォーラム』第9号(2000) |
森田伸子: |
第9号の刊行にあたって
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〈フォーラム1 「戦後教育再考」〉 |
大内裕和: |
報告:戦後教育再考―戦時/戦後の区分を超えて―
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高橋浩: |
司会:戦時動員体制の終焉とグローバリゼーション
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小玉重夫: |
コメント:戦後教育学と国民国家 |
岡村達雄: |
コメント:「戦後教育学」とは何か
―教育における<近代>批判をめぐって―
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〈フォーラム2 「都市と教育」〉 |
山名淳: |
報告:都市と教育―<都市の教育思想史>序説―
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高橋勝: |
司会:「都市と教育」を論ずる視点
―思想史的方法と現象学的方法―
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渡邊隆信: |
コメント:ゲゼルシャフトとしての大都市/ゲマインシャフトとしての学校
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森岡修一: |
コメント:文化的・社会的テクストとしての都市空間
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〈シンポジウム 「学級の思想」〉 |
安川哲夫: |
報告:モニトリアル・スクールは近代学校の原型か?
―「クラス」と「一斉教授」について再考する―
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田中毎実: |
報告:学級の日常的生成と歴史的生成
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今井重孝: |
報告:オートポイティック・システムとして学級を観察する
―システム論を「学級」観察に応用する―
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森田伸子: |
司会:近代性としての学級と子ども
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宮本健市郎: |
コメント:学級と学年と教育の個性化 |
小松佳代子: |
コメント:「学級」のオペレーション史へ向けて
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〈コロキウム〉 |
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田中智志: |
冗長性のコミュニケーション
─ルーマン・教育理論・ポストモダニティ─
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樋口聡: |
教育思想研究におけるミーメーシス概念の可能性
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下司 晶:
上原秀一:
江口 潔:
綾井桜子:
渡邊樹子:
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教育目的論議を再読する
―近代教育批判の視点に着目して―
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〈投稿論文〉 |
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弘田陽介: |
バゼドウ『基礎教科書』における身体
―教育と身体の連動を思想史的に問い返す―
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〈図書紹介〉 |
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今井康雄: |
Silvia Hedenigg: Kindheitsbegriffe japanischer Strafkonzeption |
〈リプライ〉 |
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樋口聡: |
誤解について、あるいはテキストの隠れた次元 |
〈書評〉 |
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原聰介: |
清水重勇『スポーツと近代教育 フランス体育思想史』
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宮寺晃夫: |
リベラリズム教育哲学の「再審」請求
―小玉重夫『教育改革と公共性』を読む―
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松浦良充: |
教育思想史研究は近代教育を再構築できるか
―小笠原道雄監修『近代教育思想の展開』・『近代教育の再構築』―
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矢野智司: |
教育学的人間学とは何(だったの)か、…そして何でありうるのか
―氏家重信『教育学的人間学の諸−その多様性と統一性』―
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氏家重信: |
日本の戦後教育学思想の峰々を縦走する
―皇紀夫・矢野智司編『日本の教育人間学』―
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川瀬邦臣: |
ドイツ新教育研究における「解釈」と「評価」
―山名淳『ドイツ田園教育舎研究』―
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