会長挨拶

〈車座〉の学会

教育思想史学会会長 山名 淳

 大学のキャンパスを歩いていると、向こうから友人が歩いてくる。「やあ、久しぶり、元気にしてる?」。よもやま話に花が咲き、その流れで友人が「ところで最近、こんな本を読んだんだけれど」と言いながら、読後の感想を聞かせてくれた後で、その本から刺激を受けて考えていることをあれこれと話をしてくれる。 こちらも聴いているうちに発想を促されて反応したくなり、そうこうしているうちにますます会話が弾んでいって、時があっという間に立っていく。何やら面白そうなことを話しているようだと感じた通りすがりの人たちが一人、また一人と会話のなかに入ってきて、気がついたらそこに車座が出来上がっていた……。
 実際にはどこにもありそうもないそのような〈車座〉のイメージが、私の教育思想史学会の、より正確にはその前身の近代教育思想史研究会の原風景です。年に一度の大会に参加して、真剣ないくつもの議論に耳を澄ませつつ、どぎまぎしながら自分の意見を何とか述べて、それに対する反応にまたいろいろと刺激を与えられる。 言葉の世界にたゆたう気持ちでいるうちに、いつしか自分がこうにちがいないと最初に感じていたことが揺さぶられて、他者の内面化と呼びたくなることを経験したかのように感じたりもする。ああ今年もまたここに来てよかったな、と実感できる場所。それが私にとっての近代教育思想史研究会でした。
 近代教育思想史研究会の年次大会は、「この人の話をとことん聴いて論じてみたい」という強い思いから複数のフォーラムを柱に立てて構成されていました。教育哲学・思想史研究に関係する国内外の組織を見渡すとき、ドイツ語圏のザルツブルク・シンポジウムがその形式の点で似ているところがありますが、管見の限りそれ以外には類似した一定規模の定期的な大会はそう多くはなさそうです。 近代教育思想史研究会が教育思想史学会になってからも、この特徴は基本的に引き継がれているように思われます。それゆえ、一般的にイメージされる学会大会とは異なる点がこの学会にはあります。本学会大会には誰もがエントリーできる個人研究の発表の時間枠が設けられていないことは、その典型と言えるでしょう。
 見方によっては「割に合わない学会」なのかもしれません。それでも30年以上にわたって毎年催される〈車座〉を楽しみにしている人たちがここに集まるのはなぜか。それは、まだ十分に言語化され尽くされていない時代の感覚や雰囲気を敏感に感じ取って議論の舞台に乗せるという営みをこの学会の参加者たちが続けてきたからではないでしょうか。 この〈車座〉の舞台を引き続き魅力的なものにするために知恵を出し合うことが、すべての参加者に期待されるところでありますし、またそのような知恵を有意義にまとめていくことが理事会に付託された任務であると感じます。
 その〈車座〉から飛び立って国内外の教育哲学・思想史関係の共同体や外部の学問ディシプリンと対話を試みたとき、そこで出会うすばらしい人たちにはある共通している特徴があると感じることがありました。 議論の場の尊重やそこに参入する人たち相互の敬意、自分と異なるものへの寛容さ、違和感から生じる対話の可能性への期待、批判と非難の区別、自分自身への省察の向け変えの準備など。〈車座〉の学会は、そうした好ましい(と私が考える)感情や意志や構えのようなものに出会うための準備をしてくれたように思います。 あるいは、事実は逆なのかもしれません。すでに〈車座〉の場でそうした好ましいものに出会っていたからこそ、その外部での出会いのなかでそれに共鳴するものを感知できたのではないかと思うのです。そうした経験をできるだけ多くの人にこの学会で経験してほしいと願っております。
 第10期(2018年10月-2021年9月)の小玉重夫会長時代に「つながり」という方針が掲げられたとき、新型コロナウイルス感染症の問題が発生して容易に外に出られない状況になりました。第11期(2021年10月-2024年9月)の西村拓生会長時代に「歴史的現在」を問うことが重視されたときには、過去の戦禍を通じて反省されたかにみえた核兵器の使用をもほのめかす戦闘状態が生じています。 今、私たちが〈車座〉の存在意義に立ち返ろうとするとき、世界は連帯を脅かす分裂という難題を突きつけてくるかもしれません。しかし、そうした時代の挑戦に直面するたびに、思想史や哲学の意義はたえず問い直され続けてきたのではないでしょうか。
 時代は大きく変化しています。〈車座〉でない教育思想史学会を思い描くこともできるかもしれません。今後ネットワーク型の組織がますます重視されて、〈車座〉の学会は時流に乗り遅れるかもしれません。難しいところですが、自分が惹きつけられてきたこの〈車座〉型の集いの在り方を時代の動向にも目配りしながら追求していきたいと思います。 そのためには、学会員の皆様とのビジョンの共有とさらなる共同の検討が不可欠です。
 「なんだか興味深そうな話をしているよ、行ってみようか」と思う人が一人また一人と集まってくる。冒頭の描写は史実というよりも私の記憶のなかで濾過された単なる理念化された学問共同体のイメージなのかもしれません。ただ、そうした理念が現実を動かしていくこともあるのではないか。 そうした期待を抱きつつ、大きな学会では難しくともこのサイズの学会だからこそなしうることを、皆様と共に追求してまいります。よろしくお願い申し上げます。